プロフィール
プロフィール(マイストーリー)
「ピアノ練習の日々」
ピアニストである両親の元に生まれ、音楽に溢れた中で育ちました。伯母も声楽家と恵まれた環境で毎日ピアノと歌に囲まれていました。
幼少の頃より両親に手ほどきを受けピアノに親しみ、他にもピアノの先生やソルフェージュの先生などたくさんの先生のレッスンを受けました。学校から帰宅して何時間もピアノを練習する日々を過ごし、父の音大生のお弟子さんに混ざりピアノの研究会に参加していました。中学生になってからは毎月故・金澤益孝氏(当時、大阪芸術大学教授・演奏学科長/金澤ピアノ塾々長)のレッスンを受けに兵庫県へ通い始めました。曲を1ヶ月で仕上げ、出来ていなければレッスンが即終了してしまう事もあり厳しくもありましたが、得るものが多く刺激的なレッスンでした。それまで以上にピアノが忙しくなるも、部活は吹奏楽部に入りトランペットにも親しみました。部活ではアンサンブルの楽しさを学び、その頃から一緒に音を奏でて演奏することがとても好きになりました。
高校生になり金澤氏の推薦を受け16歳でファミリーピアノアンサンブルOZの一員として、デビューリサイタルを開催。それからは、様々な場所でたくさん演奏させて頂き、特にオーケストラと共演させていただいた協奏曲の経験は今思い出しても胸が熱くなるほど感動しました。そんな中、金澤氏が他界。空虚感を持ちながら大学へ進学。在学中も演奏会や学校等への出張演奏、両親のアシスタントやレッスンを続けていました。
「初めて離れたピアノ」
そんな中、姉が結婚や出産のタイミングで演奏会の出演をセーブするようになり、私自身も演奏会をセーブし、少しずつピアノから離れた生活を送るようになりました。ちょうどその頃に金澤氏が夢に出てきて「まだやることがあるでしょ」とだけ言い残し消えてしまい、不思議に思いながらも特に気にとめていませんでした。
その後、自身も結婚し出産。ピアノやリトミックに親しみながらも演奏会に出演することはありませんでした。3人目が生まれる頃に転勤で大阪を離れることに。部屋の関係でピアノは持って行かず、初めて全くピアノのない、側でピアノを弾く人がいない生活を送りました。新しい土地での子育てに必死でピアノの事を思い出す余裕はありませんでした。大阪に帰省し久しぶりに家族の演奏会を聴いた時のこと。生まれた頃からあたり前にあったピアノの音色が、こんなにも温かく心に響く音色だったなんてと号泣。いつまでも変わらず愛に溢れた音楽を奏でる両親、子育てをしながら演奏活動を続けている姉にとても感動しました。音楽の素晴らしさを肌で実感し、私も両親や姉のように本物のピアノの素晴らしさを伝えたいと強く思いました。私らしく、子育て中の人々を癒せるような、心地よくたくさんの人に喜んでもらえるような演奏をしたいとの思いで溢れました。転勤先にすぐにピアノを持って帰り無理に場所を作って置きました。子ども達にピアノを教えながら、ずっとピアノの練習をしました。ピアノが楽しくて仕方なく、教えている時間や自分自身の練習に癒される毎日。ピアノが今までで一番大好きになりました。
「ピアノと共に」
4人目の子どもにも恵まれ、ベビーマッサージと言う新たな素晴らしい経験に感動しベビーマッサージの資格も取得。この頃に、ちょうど大阪に戻り「赤ちゃんからおじいちゃん、おばあちゃんまで一緒に音楽を」のテーマに姉が賛同してくれ、姉と共に「piano duo RY」として母親らしいピアノ演奏とレッスンを提供したいと少しずつ活動を始めました。「ファミリーピアノアンサンブルOZ」としても再スタート。今思えば、金澤氏の「まだやる事があるでしょ」の言葉は、この事だったのではと感謝する日々です。
4人の子ども達も音楽が大好きに育ち、長男は音楽大学へ進学。クラシックピアノではなくJazzピアノと私にとっては新しいジャンル。初めて知るJazzピアノの楽しさを教えてくれている長男にも感謝。他の3人の子ども達も含め、どんどん音楽の可能性が広がっています。
3世代に渡りそれぞれの個性を生かした演奏活動やレッスン。家族でアンサンブルが出来る幸せを感じながら、音楽の素晴らしさを教えてくれた両親に感謝しながら活動しています。
たくさんの人々が素敵な音楽にめぐり逢えますように。
長文、最後までお読み頂きましてありがとうございました。
ensemble-piano主宰 yumi